【白鳥山法持寺】は日本武尊の陵墓をまもる力強い寺院!?

神社寺院

熱田神宮のご近所にある法持寺には、強さを感じます。

・日本武尊の伝説(白鳥古墳/断夫山古墳)
・空海による開基
・織田信長の戦勝祈願
・横綱北の湖の宿舎
・熱田神宮との関係

桶狭間の戦い前に、織田信長が戦勝祈願に来た地として、愛知の人では知っている白鳥山法持寺

白鳥山法持寺は、名古屋市熱田区白鳥1-2-17にあり、熱田神宮の西側に位置しております。
法持寺の西には白鳥古墳があり、北には断夫山古墳など法持寺にゆかりの地もあわせてご紹介します。

白鳥山法持寺

白鳥山法持寺

白鳥山法持寺白鳥御陵を鎮守とし、御陵の宝物を護持することから「宝持寺」として言われていました。
江戸時代には、現在の「法持寺」になったそうです。

その白鳥御陵は尾張氏の墓とも言われていますが、日本武尊の陵とした伝説もあり
白鳥古墳の北には、日本武尊の奥さん宮簀媛命のお墓ともされる断夫山古墳があります。
(断夫山古墳も尾張氏の墓と言われています。)

ご本尊は釈迦牟尼仏です。

開基は空海とされ、熱田神宮参籠時に、日本武尊を敬い延命地蔵菩薩像を彫り祠を建立したのが始まりとされます。
開基年は不明ですが、空海は西暦774年誕生しておりますので800年前後になるでしょう。

では、日本武尊と天皇家や尾張氏との関係性をみていきます。

日本武尊の系図

日本武尊 系図

日本武尊は、12代景行天皇の子で、14代仲哀天皇の父。

日本武尊の奥さんは宮簀媛と言われ、白鳥御陵の北に位置する断夫山古墳は宮簀媛の墓とされています。

歴代天皇の在位(西暦)
・12代景行天皇   71年ー130年
・13代成務天皇  131年ー190年
・14代仲哀天皇  192年ー200年(新功皇后在位 201年―269年)
・15代応神天皇  270年ー310年

日本武尊の生没  
・82年ー111年

熱田神宮の歴史
・113年 草薙神剣を熱田の地に祀る
・195年 氷上姉子神社 ご祭神:宮簀媛

熱田神宮のご祭神
・熱田大神
・天照大神(相殿神)
・素戔嗚尊(相殿神)
・日本武尊(相殿神)
・宮簀媛命(相殿神)
・建稲種命(相殿神)

建稲種命は 乎止与命の娘:宮簀媛命の兄であり

日本武尊東征時の副将軍です。

景行天皇時代、東征への途中に伊勢神宮に立ち寄り、草薙神剣を賜ります。

日本武尊に、伊勢神宮にあった草薙神剣を授けたのが倭姫命であり、天照大神を伊勢の地に祀ったとされる人物です。初代斎宮とされる。

その後、副将軍であった建稲種命の地元尾張国により、宮簀媛に出あうことになります。

東征後、ふたたび尾張に戻り宮簀媛との時間を過ごした日本武尊は、草薙神剣を預けたまま伊吹山へ討伐に向かい亡くなってしまう。

草薙神剣に関しても諸説ありますが、熱田大神は、草薙神剣をご神体とした天照大神のことです。

つまり、この年代が「伊勢神宮」「熱田神宮」創建ということになります。

邪馬台国:卑弥呼

242-248年に死去したとされているため

この時代どこでかかわっていたのか?

卑弥呼は

倭姫命や神功皇后だった説があるよ

【白鳥古墳】

白鳥古墳
白鳥古墳

【断夫山古墳】

断夫山古墳
断夫山古墳

白鳥古墳:名古屋市熱田区白鳥1-2
     日本武尊の陵とされる前方後円墳です。

断夫山古墳:名古屋市熱田区旗屋1-10-45
      宮簀媛の墓とされる前方後円墳で、愛知県最大規模になります。

愛知県三大古墳

1:断夫山古墳 2:青塚古墳 3:白鳥古墳

愛知三大古墳の記事はこちら

白鳥古墳や断夫山古墳は、6世紀初頭の築造とされていますが、あくまで残された遺跡類での調査をもとにした結果です。

言い換えれば、6世紀より前の時代だった可能性もあります。

現代科学の推測は正しいかもしれませんが、新発見があれば覆されます。
(伝説では西暦100年代、築造約6世紀、伝説と科学差400~500年を埋めるのは大変でしょうけど)

想像の世界は自由です。

断夫山古墳(宮簀媛の墓)の名前の由来
日本武尊を亡くした妻の宮簀媛は、悲しみの日々を過ごしていましたが、立ち直るために夫を断つ
つもり再婚せずに生涯をとじると言われている。

日本武尊と宮簀媛とのロマン、同じ地に立ち、当時の人達と同じことを考えているかと思うとドキドキしますね。

山門 金剛力士像

金剛力士像
金剛力士像

法持寺の金剛力士像「阿形」「吽形」は、お顔が特徴的!
少し顔が大きく、目・鼻・口にインパクトあり。

いつの時代に、誰がつくられたのでしょう?

中世時代には、仏師の運慶・湛慶・快慶がいらっしゃいます。
岡崎市の滝山寺は、源頼朝3回忌のために、「梵天・帝釈天・聖観音」像を作らせたといわれていますし
源頼朝誕生の地「誓願寺」は、法持寺から南西へ約200mですので、この地に来ている可能性は高い。
ただ、作品印象は違うような気がします。

近世時代には、仏師の円空がいらっしゃいます。
この地区では、名古屋市中川区の荒子観音に多くの円空作が現存していますが、円空作特徴のシンプルさ?ゴツゴツさ?がありませんので、違いますかね~。。。

ごめんなさい、確認不足です。
判明したら、お伝えしたいと思います。

金剛力士像にわらじの奉納みえます。
これは、健康的な身体をしている金剛力士像にあやかり、足腰の病気や治癒を願うことから始まっています。

弘法堂

弘法堂

開基は弘法大師/空海ですので、弘法堂へお参り。

法持寺は、空海が日本武尊を敬い、延命地蔵菩薩像を彫り小祠を建てたのがはじまりです。

裏手は白鳥古墳が隣接しており、6世紀頃(調査結果)の築造だとしても、空海の生没は774年-835年ですので
当時の空海が、日本武尊の陵を見ながら像を制作している可能性もゼロではありませんよね。
尾張国首長のお墓よりも、日本武尊の陵の方が想像力をかきたてます。

陵とは、天皇や皇后
皇族を葬る所である墓です

空海は真言宗ですが、1400年後半圓通寺明谷義光によって曹洞宗の寺院として再興されており
現在は曹洞宗のお寺です。

三保ヶ関部屋宿舎

境内には、横綱北の湖の石碑がある。

大相撲名古屋場所の時には、三保ヶ関部屋の宿舎として使用されたようです。

日本武尊の力強さ、その陵墓を護る法持寺、その寺を守る金剛力士像!
力士部屋の宿舎になる理由はたくさんありますね。

三保ヶ関部屋の宿舎として、名古屋市天白区天白町平針にある秋葉山慈眼時も宿舎として使用したことがあり
こちらも、織田信長が桶狭間の戦い前に、戦勝祈願した地でもあります。

残念ながら2013年に三保ヶ関部屋は閉鎖しています。

最後に

白鳥山法持寺

神社寺院は、当時の面影を残しながらも衰退と再興をくりかえし現在に残ります。

自然災害や戦争による影響も大きいながらも、人との関わりも大きく影響するのは間違いありません。

企業と同じで、経営困難に陥れば廃墟となり、歴史から姿が消えてしまいます。
神社の廃社や寺院の廃業です。

国・地域も活性化の取り組みをしていますが、この素晴らしき歴史・文化を残したい。

これからも色々発信していきます。

最後までありがとうございました。

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