織田信長の居城【清洲城】209年間の歩みを見る!

お城

歴史的な人物名を挙げるとしたら「織田信長」、では

歴史的な建造物名をあげるとしたら「清洲城」ではないでしょうか。

・応仁の乱:1467年に起きた内乱との関係
・出世城 :織田信長天下取りへの足がかり桶狭間の戦いは、ここから始まる。
・清須会議:織田信長没後の後継者問題や領土再分配問題
・清州越し:関東の巨鎮/天下の名城廃城、名古屋城築城移転 など

今回は1405年築城から1613年廃城までの209年間を歴漫します。

清洲城

清洲城

清州越しにて廃城になった清洲城は、1989年旧清洲町の町制100周年を記念して復元されました。

毎年3月下旬から開催される「清洲城桜まつり」や「春日五条川さくらまつり」は、愛知県でも有数の花見スポットであり、露店や出店が多く立ち並びます。

新型コロナの影響で開催は見送られていますが、夜桜に映える清洲城は一見の価値ありです。

清州越しとは

江戸時代、徳川家康の天下普請により

清洲城から名古屋城へ都市機能を移転したことになります。

概 要

清洲城

築城主:斯波義重
築城年:1405年
廃城年:1613年

室町時代、尾張守護の管領斯波家6代目当主斯波義重により、守護所下津城の別郭として築城されました。

下津城は、現在の愛知県稲沢市下津高戸町にあり、清洲城からは北へ約6Kmの位置にあります。

築城主:斯波義重の系図を見てみると

斯波家 系図

清洲城を築城した斯波家6代目当主斯波義重の尾張守護には、守護代として清洲織田氏(大和守家)と岩倉織田氏(伊勢守家)が仕えます。

1467年応仁の乱時には、織田大和守敏定は斯波義敏を擁立し東軍に、織田伊勢守敏広は斯波義廉を擁立し西軍に属して対立することになります。

織田信長はどこで登場するかと言うと、

守護代清洲織田氏(大和守家)の下に、清洲三奉行があり、その1つ弾正忠家の流れです。

織田信長ルーツ関しては、下記をどうぞ。

徳川家康の江戸時代に入ると、清洲城を廃城し名古屋城築城へ移り変わります。

なぜ?

この時代の出来事として
1600年 関ヶ原の戦い
1614年 大阪冬の陣
1615年 大阪夏の陣
と豊臣家と徳川家の対立が続いていた状態です。

清洲城は、東と西をつなぐ重要戦略地でありながら、
・庄内川の下流にあたり水害が多発していた。
・1586年の天正大地震で液状化していた。

危惧した徳川家康が、1610年天下普請により名古屋築城に踏み切ったわけです。

みどころ

【清洲城石垣】

清洲城 石垣
清洲城 石垣

大部分が名古屋城築城の際に移されたそうですが、河川事業の遺跡調査時に発見されたと言われ

石垣の基礎は、戦国時代にかけて用いられた技法で野面積み呼ばれる積み方です。

清洲城から大手橋を渡り、清洲公園の前にあります。

【城門 信長塀】

清洲城 信長塀
清洲城

信長塀をイメージした城門が迎えていただけます。

信長塀とは

桶狭間の戦い時、戦勝祈願として熱田神宮に詣り

そのお礼ととして奉納した塀のことです。

【枯山水庭園 石庭】

清洲城 枯山水庭園
清洲城 枯山水庭園

城門をくぐると、そびえ立つ清洲城を眺めながら立派な石庭を通り、いざ城内へ!

城内見学を終え出口脇に、枯山水庭園が待っています。

【城 内】

清洲城内
清洲城内

お城の中でも、飽きさせない見せ方(人形劇や映像など)の工夫をされていましたね。

清洲城にまつわる出来事を、ビデオ映像配信もしており、すごく勉強になるし興味が湧く。

子供づれの家族3組とは、同席する場面が一緒だったので、同じタイミングの見方で回っていたんだなと後で気づきました。。。

戦国期のこの時代には、数多くの武将が登場します。

織田信長の側近や、各地の戦国大名など、読み込むと時間経過が早い。

ただ、字が細かく見えにくいのが難点。

NHK大河ドラマで一番多くの時代をモチーフにしている時代、戦国時代になります。

当然、織田信長は登場します。
清洲城も登場します。

大河ドラマが描いた日本の歴史をこの清洲城で感じることが可能です。

関東の巨鎮
関東の巨鎮

朝鮮通信使の記録には「関東の巨鎮」、また「天下の名城」と言われるほど素晴らしいお城の清洲城。

名古屋城初代城主でもあった徳川義直の頃には、清洲城下は人口6万人の賑わいみせていたようです。

当時の清州は、天守を中心に東西1.6Km、南北2.8Kmにもおよぶ城郭を形成しており

現在の清州は、人口約7万人ほど、広さ17.35㎢です。

条件が違いますので、単純比較できませんが、それでも戦国期の日本総人口1200万人と言われている中で名前があがる都市には間違いないかと思いますね。

清洲城
清洲古城跡公園

城内から見る石庭や枯山水庭園です。

朱色の大手橋を渡ると清洲公園・清洲古城跡公園があり、織田信長/濃姫像や織田信長を祀る小社がある。

命日の6月2日には、織田信長公顕彰祭が開かれます。

清洲城内には、多くの鎧兜が展示されています。

清洲城
清洲城
清洲城
清洲城
清洲城芸能文化館
清洲城芸能文化館

清洲ふるさとのやかた地下1F、清洲甲冑工房では見学は自由です。

ボランティアグループによる活動していますので、ご興味ある方は是非会員のお話しをどうぞ。

最後に

清洲城の城主を見ると、管領の斯波家➡織田家➡豊臣家➡福島正則➡徳川家とそうそうたるメンバーばかりです。

関ヶ原の戦い前、福島正則が清洲藩の時に24万石で
関ヶ原の戦い後、松平忠吉(徳川家康4男)52万石でした。

年収に換算すると
1石は約4~6万円と言われてますので、5万円と仮定すると
5万円×24万石=120億円 ってまじ?と言うぐらいの数字。。。じゃあ
5万円×52万石=260億円 すごいですよね~。

それだけの価値が清州藩・清洲城にはあったという証明でもありますね。

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