織田信長の元服の地、古渡城(現:名古屋別院)の敷地は約1万坪

歴漫

13歳で織田信長が元服したのは、古渡城(現在の名古屋別院)です。

正式名称「真宗大谷派名古屋別院」、ご本尊は阿弥陀如来
1690年、第2代尾張藩主徳川光友よりこの地(古渡城跡地約1万坪)の寄進を受け、一如により創建、本山は京都の東本願寺です。

1945年の名古屋空襲により、本堂はじめほとんどを焼失しましが、戦後再建されたこの地を訪れました。
名古屋の中心部に位置しながら、この広さの寺院は少なく、本堂での参拝は非常に気持ちが落ち着きます。

今回は、この「真宗大谷派名古屋別院」を(名古屋の人は東別院と言っています)堪能しつつ、織田家のルーツも一緒に見ていきたいと思います。

東別院・名古屋別院

名古屋別院

古渡城

1534年信長の父:信秀によって築城され、信秀は今川氏豊から奪取した那古屋城を信長に譲り、古渡城を居城としました。
1548年清州の織田信友の部下、坂井大膳に攻め込まれたことにより、末森城を築城し移ったため廃城となります。
古渡城の歴史は14年間で幕を閉じます。
1690年尾張藩主の徳川光友により、この跡地を本願念仏のみ教えを伝える道場として、一如によって創建されます。

暮らしの朝市としてリニューアル

真宗大谷派の宗祖親鸞聖人の命日28日に開催されていた、「てづくり朝市」
東別院を開基した一如上人の命日12日に開催されていた、「ミーツオーガニックマーケット」


2020年7月よりこの2つを合わせ「東別院暮らしの朝市」としてリニューアル!!

毎月8日・18日・28日

10:00~14:00に開催してます

最初に訪れたのは4月初旬でしたので、境内に咲く桜はとても美しく、入園式を迎えた方たちも、桜の木+本堂の構図で家族写真を撮られていました。

本堂内の撮影は禁止されていますので、写真ではお伝え出来ませんが、1~2時間でも滞在できる場所です。

煩悩なく、ただ仏様の顔を眺める時間は素敵です。

本堂の阿弥陀如来像は、鎌倉時代の仏師運慶の子湛慶によるものです。

その他に、戦時中の大演習時に明治天皇がこれらた石碑など歴史的価値の高い史跡も残ります。

織田信長のルーツ

そもそも織田家のルーツは、越前国織田荘(現・福井県)にある剣神社です。

斯波家が1400年尾張国守護に任命され、三管領の斯波家の守護代である織田氏は、一緒に流れてきたと言われています。

信長の本姓は藤原氏(藤原北家)、のちに桓武平氏資盛流とも言っており、「藤原信長」「平信長」と明記された資料は残っているが、忌部氏であった資料も残っている。

ただ 忌部氏 であるとは言っていないとか、どうか。

三菅領とは、斯波氏・細川氏・畠山氏のことで
将軍の補佐役(幕府の最高役職)です

尾張守護職:斯波家

〇1400年 斯波義重 下津城に尾張守護を設置
〇1405年 清洲城築城
〇守護代として
 清洲城居城とした清洲織田氏:尾張下四郡管轄
 岩倉城居城とした岩倉織田氏:尾張上四郡管轄
〇清洲三奉行として
 因幡守家
 藤左ヱ門家
 弾正忠家 ➡織田信秀・信長
 

1467年になると応仁の乱が勃発、その戦火は尾張国にも拡がり激しい争いが繰り広げられていました。

尾張国での争いは、東軍:織田大和守敏定(斯波義敏) VS 西軍:織田伊勢守敏広(斯波義廉)の構図でおこり
1476年守護所の下津城が落城清洲城を守護所としておかれ、敗れた敏弘は岩倉城を築城し居城とした。
清洲織田家は勢力拡大していく流れになります。

東軍:敏定 勝利

西軍:敏広 敗北

清洲三奉行の織田家略系図

〇清洲三奉行のルーツです。
ただ出自がはっきりしていない部分が多く、左記にも分かりますように、親子関係が諸説あります。
養子縁組が多いのも、はっきりしていない部分だと思います。

〇織田久長 藤左ヱ門家の祖と言われています。
1400年前後の室町時代に活躍した武将です。

〇織田敏定 因幡守家の祖と言われています。
1467年応仁の乱時、織田敏広と対決

〇織田良信 弾正忠家の祖と言われています。
信長の曾祖父にあたり、勝幡城を居城とします。

〇織田信秀 1510年誕生


織田信長 略系図

1534年織田信長は、信秀の子として勝幡城で誕生したと言われています。

清洲三奉行の1織田家にすぎない立場でしたが、父信秀は、守護斯波家守護代織田(大和守家)(伊勢守家)よりも勢力を拡大していきます。

「尾張の虎」の異名を持つ信虎ですが、武力・知力以外に挙げられる勢力拡大のポイントが立地です。
①伊勢湾に近い木曽川に臨む港と津島神社の門前町として繁栄していた津島を支配できた
②今川家より那古屋城を奪い、古渡城を築城したことにより熱田を支配できた
末森城を築城しさらに名古屋圏での影響力をもった
事だと思います。

信秀が築城・居城とした流れとして
①勝幡城:1511年勝幡城にて誕生
②那古屋城:1538年今川家より奪取
③古渡城:1539年築城
④末森城:1548年築城
信秀は1552年死去している。

家督が信秀から信長に受け継がれると、1565年尾張国統一を果たします。
家督を受け継いだのが1552年ですので、実に約14年間もかかってしまいました。

織田信長子孫というと
①長男 信忠:本能寺の変では京都の妙覚寺に滞在し、救援に向かうが間に合わず、二条御所にて自害された。
②次男 信雄:北畠家へ養嗣子となり、本能寺の変後の清洲会議にて織田姓に戻っている。
       豊臣秀吉側に与していたが、小牧長久手の戦い時には徳川家康と共闘、豊臣政権下および徳川政権下
       と渡り歩き、1630年73歳の生涯を閉じる。
③三男 信孝:神戸家へ 養嗣子となり 、本能寺の変後は秀吉と対立する。
       賤ケ岳の戦いで柴田勝家を失い、降伏後切腹する。
④三法師  :信忠の長男で元服し秀信とする。
       関ヶ原の戦いでは西軍に味方した結果、高野山へ出家。26歳の若さでなくなっている。

三法師こと秀信は、祖父信長の高野山焼き討ちが影響してか
迫害を受けていたそうです。

最後に

4月に2度、東別院の朝市に行きたくて参拝しました。

なぜ2度行ったか?
それは、織田信長が桶狭間の戦い前に、戦勝祈願に寄った「日置神社」がすぐ近くにあるからです。

この近辺はコインパーキングも多く、車に自転車をのせて日置神社➡東別院など自転車での散策にピッタリ!
まあ神社仏閣数が日本で一番の愛知県ですからね、歴史的な史跡や歴史上の人物とかかわることも多くなります。

参拝するたびにこころが清らかになりますし、次回は驚きと発見をもとめ、ゆっくり泊まりながらも良いかも。

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