尾張開拓の祖神【大荒田命】の地を巡り、当時の歴史を見る

歴漫

尾張の豪族は、いつ頃から表舞台の歴史へ出てきたのか。

それを知る上で、神社参拝や遺跡を巡ることは良いキッカケになります。

弥生時代に神社が建立していた!

狩猟から農業へ移行した弥生時代のイメージからでは、正直あまり想像できないですけどね。

ただ、当時の中国史では三国志時代になります。

それを聞くと「それだったら、、」と妙に納得できる自分がいる。

今回はそんな尾張の豪族にまつわる歴史巡りをしたいと思います。

3ヶ所とも、数Km圏内ですので出来れば一緒に巡ってみてください。

青塚古墳

青塚古墳

概 要

大荒田命の墓とされる前方後円墳です。

愛知県で2番目の規模の大きさで、古墳時代西暦350年ぐらいに築造されたと言われます。

愛知県で1番目に大きな古墳は、断夫山古墳
愛知見で3番目に大きな古墳は、白鳥塚古墳

愛知県の三大古墳に関してはこちらをどうぞ。

詳 細

青塚古墳

【規模】

墳  長:123m
後円部径:78m
後円部高:12m
前方部長:45m
前方部幅:62m
前方部高:7m

【築年】

築年は、4世紀中・西暦350年頃と古墳の出土品から推定されています。

古墳時代は3世紀後半始まり、大和政権との繋がりの強かった尾張地方では、前方後円墳を築造できるだけの権力があったと予想されます。

当時の前方後円墳は、最も権力のある豪族の墓だと考えれているからです。

古墳には様々な形状や規模が存在しますが、古墳の大きさは権力の大きさであり、身分の違いを表すものと伝えられています。

当時の時代はどうなっていたか、下記系図を参考にしてみますと

大荒田命 系図

大荒田命の娘:玉姫命は、乎止与命の子:建稲種命の奥さんです。

建稲種命は、日本武尊東征時の副将軍を務めていますので、西暦100年前後になります。

日本武尊の生没は景行12年ー景行41年。

西暦に換算すると82年ー111年になります。

歴代天皇の寿命で、12代景行天皇147歳・16代仁徳天皇は143歳とTOP2の長寿命です。

もしかすると、大荒田命も長寿命だとすると、西暦200年ぐらいまで生存している可能性があるかも?

世界三大墳墓の1つ、百舌鳥古墳群にある仁徳天皇陵は、16代仁徳天皇のお墓です。

5世紀前~後期ごろ築造されたとされ、仁徳天皇は西暦399年に崩御されていると言われていますので

死後数十年に墳墓が完成している。

青塚古墳の出土品から築造年月日と大荒田命生没時期を見ると、大きくかけ離れていないことになりますよね。

つまり、

青塚古墳は、大荒田命のお墓である。

と想像してもおかしくありません。

そんな気持ちでもう一度、墳墓を見ると

青塚古墳

約1600年前から実在する古墳!

小牧・長久手の戦い時には、豊臣秀吉が砦として利用されていたこともあったそうです。

一体どれだけの歴史上人物が、この地に訪れたことでしょうね。

それでは、大縣神社へ行きます。

尾張二ノ宮 大縣神社

大縣神社

概 要

創 建:紀元前3年
ご祭神:大縣大神
鎮座地:愛知県犬山市字宮山3番地

もともは本宮山の頂に鎮座していましたが、11代垂仁天皇治世27年に現在の地に御遷座された。

11代垂仁天皇は12代景行天皇の父親であり、先に記述した青塚古墳の被葬者大荒田命の時期になります。

つまり、当時からこの地方と中央政権とのつながりが強かったと言えますね。

尾張一之宮の真清田神社のご祭神は天火明命とされており、尾張二ノ宮の大縣神社のご祭神との一説がある武恵賀前命は瓊々杵尊の子孫です。

その子孫が大荒田命であり、ご祭神であるとの説もあります。

武恵賀前命は、10代崇神天皇の時代の人です。
この説は正しいとされていますので、この時期に尾張に来られ、土着の豪族とつながりをもったからこそ
ご祭神である説もでるのでしょう。

また少し遡ると、神武天皇の子:神八井耳命の直系でもあるが、ご祭神である説は浮上していない。

瓊々杵尊がご祭神である説も浮上していない。

このことから、一之宮真清田神社と二ノ宮大縣神社とで、何らかのバランス・関係性が出たのではと思えてならない。

下記に系図作成してみました。

尾張開拓の祖 系図

彦坐王も東征時にこの近辺まで、もしくはこの地へ来ています。

実際に岐阜県岐阜市にある伊波乃西神社のご祭神は、彦坐王であり、宮内庁管理地として彦坐王のお墓もあるそうです。

もしかしたら彦坐王が大荒田命の祖先?と思いましたが、その可能性は低そうです。

どちらかと言うと乎止与命が子孫にあたるのでは、と思っておりますが、天火明命と乎止与命までの系図には下記のような伝承もあります。

乎止与命 系図

天火明命の11世孫が乎止与命になる、という伝承をもとに、系図を調査・作成してみました。

乎止与命の2~3世の先祖が各史伝によりまちまちでありますが、10代崇神天皇・11代垂仁天皇の時代という大枠で見ると、この時代尾張の地は密接な関りをもつ重要地であります。

古代社格制度では、真清田神社・大縣神社は式内社・名神大社であり
中世社格制度では、一之宮真清田神社、二ノ宮大縣神社です。

社格制度自体現代は廃止されていますが、701年社格制度発足当時から重要拠点を担っているのは間違いなさそうであり、立ち位置を考慮して、天火明命・瓊々杵尊の子孫もしくは序列考慮のご祭神設定をしたのかもしません。

もちろん納得できる内容ではないでしょうけど、

ご祭神:国狭槌尊
神代七代の1柱ですが、関連性が難しい。

ご祭神:天津日子根命
天火明命や瓊々杵尊の叔父にあたる位置のため、序列を気にする方たちにはどうなの?

ご祭神:少彦名命
大国主命との国造りに協力した神様であるが、中央と尾張、関係性をもった地での影響は?

結局は大縣大神、尾張開拓の祖神ということで落ち着いたのか….

これは間違い無いことでしょうから。

姫の宮

姫之宮

ご祭神:玉姫命

大荒田命の娘であり、建稲種命の奥さんでもあります。

現在、大縣神社境内社は、姫之宮・大国恵比寿神社・本宮社・楽田神社・雨宮社。

大荒田命をご祭神とうたう境内社はありません。

玉姫命は姫之宮と、田縣神社でご祭神として祀られています。

と言うことで、

尾張開拓の祖神として大荒田命の名前が挙がるのに、ご祭神として祀らている神社がないのも、どう判断すべきでしょうか。

青塚古墳は、大荒田命の墳墓として伝承されている。

それほどの人物なのに?

やっぱり、大縣神社のご祭神は大荒田命?もしくは合祀されている。

と判断しても良いのではないでしょうか。

みどころ

【参道】

大縣神社 参道

【大国恵比寿神社】

大黒恵比寿神社

【姫石】

大縣神社 姫石

【四季桜の杜】

大縣神社 四季桜の杜

【梅園】

大縣神社 梅園

山々や樹々に囲まれた大縣神社境内は、時期によってみどころも多いです。

日本の四季によって、それぞれの顔を持つ神社。

2~3回行っただけでは、全部も理解はできませんね。

では、田縣神社へ行きましょう。

田縣神社

田縣神社

概 要

創 建:不明
ご祭神:御歳神 玉姫命
鎮座地:愛知県小牧市田県町152番地 

創建は不明ですが、延喜式神名帳に「尾張国丹羽郡 田縣神社」とあることから、約1100年前の古刹です。

しかし、

田縣神社

「御創建年代は弥生時代までさかのぼり」と明記されています。

社伝だとしても、

古墳時代は3世紀中頃~ですし、弥生時代は紀元前10世紀もしくは紀元前5世紀ごろと言われておりますので

愛知県でもっとも古い神社の可能性があります。

一之宮真清田神社は、紀元前638年創建

と言う説もあります(神武天皇33年)

弥生時代後期は、12代景行天皇に当てはまりますので、

その子:日本武尊の東征副将軍を務めた建稲種命の奥さんは、ご祭神の玉姫命

弥生時代創建もあながち間違いではありません。

夫の建稲種命を亡くしてから、この地に戻り、大荒田命の開拓を手伝いしたことにより合祀されています。

やはりそうなると、ますます疑問にでてくる事が

大荒田命がご祭神として名前が挙がらない?

やっぱり大縣神社のご祭神は大荒田命として祀ってほしい、もちろん合祀だとしても….

みどころ

【ご神体】

田縣神社 ご神体

【豊年祭】

田縣神社 豊年祭

【珍宝】

田縣神社 珍宝

田縣神社は、天下の奇祭の方が有名かもしれません。

毎年3月15日に開催される豊年祭、1度は行って見たいお祭りです。

最後に

歴史建造物を巡ったり、調べたりしたりと、見逃している部分を発見することが良くあります。

ですので、最低でも2回、出来れば四季と例祭には訪問したいと考えています。

場所柄もあるのでしょうけど。。。

学生時代にも、このような趣味はありましたが、表面的な所しか見てませんでしたね。

面白さが全然違います。

まだまだ確認したいこと・知りたいことなど、少しづづでも良いので増やしていきたいと思う。

そんな想いを持ちつつ、次なる興味の地へ!

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