松平元康から徳川家康へ改名した経緯について、各系図の略図をまとめました。
岡崎城や大樹寺など、徳川家康ゆかりの地を散策し、ふと気になったことが家康の改名行為です。
戦国武将ではよくあることとは言え、初めて改名の件で調べ各諸説があることも知りましたね。
そのために先祖のルーツを見て、清和源氏までつながったことに驚き!!
歴史のおもしろを改めて認識した今回です。
訪れたのは5月の爽やかな時期、天気も良く綺麗な写真もとれましたので、一緒に楽しんでくだい。
松平・徳川家 略系図
【松平家・徳川家 略系図一覧】
〇初代松平家当主 松平親氏
時宗総本山 清浄光寺に入って出家し、三河国加茂郡松平郷の客人となり、婿養子となる。
還俗し徳阿弥から松田親氏と名乗る。
〇4代当主 松平親忠
子孫繁栄・武運長久の守護神、氏神として伊賀八幡宮を創建(1470年)
〇4代当主 松平親忠
大樹寺創建(1475年) 徳川氏の菩提寺
〇7代当主 松平清康(家康祖父)
現在の岡崎城に築城(1531年)
〇家康の子 信康
武田勝頼との内通疑惑により、織田信長から切腹命令(1579年)
〇家康の子 秀康
後継者秀忠徳川姓→羽柴姓→結城姓へ
越前68万国初代藩主 越前松平家宗家初代
初代松平親氏は、清和源氏の流れをくむ新田世良田氏の末裔と言う説がありますが、真相は定かでない。
徳川家康が1566年三河を統一後、三河守に叙任されたもしくはその後に「松平」から「徳川」へ改姓している。
当時の106代正親町天皇からは許可が得られないまま、本姓「藤原氏」としながらも名乗っており、のちに「源氏」に復している。
系譜文書「徳川(根元は得川)は源氏だがもう一つの流れに藤原氏になった例がある」を発見したことにより、特例で認めさせたことになっているようです。
それほど朝廷の権限が弱かったのか、清須同盟による織田信長の存在を脅威と感じたのか。
もしくは、家康の祖父清康の時代より「新田氏支流世良田氏系統の清和源氏」であると自称していたため、真実に聞こえたのか。
その系譜をまとめてみました
【松平家までの略系図】
〇源義国
清和源氏:河内源氏の流れ
鎌倉幕府初代将軍:源頼朝は、義親の直系であり
義親は義国の異母兄にあたる
〇義康
義康の妻は、熱田神宮大宮司の藤原季範養女
子孫に足利尊氏がいる
〇義重ー義兼の直系子孫に新田義貞がいる
〇初代松平家当主は親氏、その父有親までには諸説一緒であるが、有親の先祖が諸説(改ざん)あるという
1603年征夷大将軍への叙位任官する時も、この名前(藤原姓)を名乗った方が任命されやすいからだ、との説が強いようです。
つまり、当時の習慣として「四姓」源氏・平氏・藤原氏・橘氏につながらなければ叙位任官がかなわなかったそうです。
【家康諸説の略系図】
〇有親ー親氏からの先祖ルーツが分かれている
〇諸説1 義兼直系、義宗を祖父とし親季を父とする系譜
〇諸説2 義季直系、政義を祖父とし親季を父とする系譜
〇諸説3 義光直系、経広を父とする系譜
武力で勢力拡大する家康の祖父:清康は、清和源氏の支流世良田氏に注目してました。
理由は家格・格式が高い三河吉良氏に対抗するためです。
そのため、世良田次郎三郎と名乗りはじめます、今回の家康改名騒動のもとになります。
清和源氏の系図に関しては、こちらにまとめていますので参考にしてください。
【徳川家康 略年表】
齢 | 年代 | 出来事 |
---|---|---|
0 | 1542 | 三河岡崎城で誕生 |
6 | 1548 | 織田家の人質になる |
7 | 1549 | 今川家の人質になる 人質交換地(笠寺観音)の記事です→こちら |
15 | 1557 | 元服 築山殿結婚 |
16 | 1558 | 初陣 |
17 | 1559 | 信康 誕生 |
18 | 1560 | 亀姫 誕生 桶狭間の戦い (人質生活終了) |
19 | 1561 | 岡崎城に帰る |
20 | 1562 | 織田家と同盟 |
21 | 1563 | 家康と改名 |
24 | 1566 | 三河国統一 徳川と改名 |
28 | 1570 | 姉川の戦い (織田・徳川 VS 浅井・朝倉) 浜松城 築城 |
30 | 1572 | 三方ヶ原の戦い (徳川・織田 VS 武田信玄) |
33 | 1575 | 長篠の戦い (織田・徳川 VS 武田勝頼) |
37 | 1579 | 築山殿殺害、信康切腹 (武田家との内通容疑) |
40 | 1582 | 本能寺の変 (伊賀越え) |
42 | 1584 | 小牧長久手の戦い (徳川 VS 豊臣) |
44 | 1586 | 朝日姫 結婚 (秀吉の妹) |
48 | 1590 | 関東へ移封 (関東250万石へ) |
58 | 1600 | 関ヶ原の戦い (西軍石田 VS 東軍徳川) |
72 | 1614 | 大阪冬の陣 (豊臣 VS 徳川) |
73 | 1615 | 大阪夏の陣 |
74 | 1616 | 病死 |
岡崎城
訪問は2021年の5月、名古屋へ向かう前に寄った岡崎城、すごいいい天気に恵まれました。
岡崎城の築城は1452年、室町幕府8代将軍足利義政の治世です。
家督争いに官領(細川・畠山・斯波)や守護大名が関与し、政治抗争が激しかった時代に築城されます。
応仁の乱は1467年ですので
少し前に岡崎城築城されてます
応仁の乱後も戦争は各地で起こり、尾張・三河地区でも争いがたえず、戦国時代に突入していきます。
1511年 徳川家康の祖父:清康 誕生
1511年 織田信長の実父:信秀 誕生
1519年 今川義元 誕生
1534年 織田信長 誕生
その後
1873年 廃城令により取り壊され、岡崎公園として整備されます
1959年 鉄筋コンクリート3層5階の天守を復元しました。
【清海堀】
岡崎城攻略目線で見ると、城門突破あと本丸手前で、左へ曲がるルート(本丸を右手に)がある。
清海堀と呼ばれる堀が、行く手を遮るように作られ、敵は攻撃を受けながら進むしかないように作られ歴史ファンにとってはみどころです。
【龍城神社】
・岡崎城は別名「龍城」といい、三河国の守護代西郷稠頼が築城したと言われます。
築城の際、井戸から龍が現れ、「われはこれ歳久しく此の処に住む龍神なり、汝われを鎮守の神と崇め祀らば永く此の城を守護し繁栄不易たらしめん」と言い天に昇った伝説があります。
徳川家康誕生の際にも、金鱗の龍が現れた伝説もあります。
伊賀八幡宮
松平家の子孫繁栄・武運長久の守護神・氏神
伊賀八幡宮は、1470年松平家4代目親忠によって創建されました。
ご祭神は
応神天皇:15代天皇 八幡神として
仲哀天皇:14代天皇 ヤマトタケルの皇子
神功皇后:14代仲哀天皇の皇后
東照大権現(徳川家康):3代将軍家光により合祀
仲哀天皇が祀られてる神社では
応神天皇・神功皇后の3柱が多いよ
4月17日は家康の命日であり、将軍名代として岡崎藩主が参拝にこれれたと言われています。
【みどころ:重要文化財ライン】
鳥居から始まり、神橋・隋身門・本殿へとつづく約300mの直線ライン。
重要文化財ばかりの伊賀八幡宮を、鳥居から本殿まで見えるラインを歴史を感じながら歩く時間は最高です。
私が訪れたのは5月、ツツジの花がとても綺麗だった。
本来7月のはすの花が隋身門の前の池に広がり撮影スポットととしてみどころです。
大樹寺
徳川家の菩提寺であり、歴代将軍の位牌が安置されている。
大樹寺は、1475年 松平家4代目親忠によって創建されました。
御本尊は
一光千体阿弥陀如来
如意輪観世音菩薩 です。
「大樹」とは、征夷大将軍を表す「唐名」です。
「唐名(とうめい、からな)」とは中国の職名で、参考例として
日本役職名 | 中国役職 |
---|---|
天皇 | 南面之主 |
内裏 | 禁中 |
太政大臣 | 相国 |
〇松平家から将軍誕生の祈願をして命名されたそうです。
【大樹寺に残る逸話】
1560年桶狭間の戦いで、今川義元の討死の報を聞いた家康は、織田信長の追っ手を逃れ大樹寺に逃れています。
大樹寺を織田軍に取り囲まれ自害の決意をした家康に、第13代住職登誉天室は「厭離穢土 欣求浄土」の教えを説いたといいます。
その後奮起した家康と僧侶500人で打ち破り岡崎城に戻ったとされ、それ以来、家康は 「厭離穢土 欣求浄土」 を馬印にしました。
大樹寺に残る、歴代将軍の位牌は身長と同じ?
実際に位牌の大きさは、124cm~160cmと位牌にしてはかなり大きいが、当時の人でもこんなに身長が低いものだろうか?
5代将軍綱吉の位牌は、最小の124cmとである。
確かに綱吉は低身長だった説もあり、この身長も臨終時の数値らしいのです。
それでもかなり低いような気がしますが。。。
江戸時代の平均身長は
男性は約157cm
女性は約145cmだったそうです
みどころ
〇大樹寺と岡崎城を結ぶ、約3Kmのビスタライン
当時の岡崎城主は毎日大樹寺に向かって、拝礼したとのことで、まさに当時と同じ場所にたっていることになります。
〇家康の17回忌に3代将軍家光が、「祖父生誕の地を望めるように」との想いから伽藍を配置したと言われています。
最後に
波乱万丈に満ちた徳川家康のゆかりの地を訪れ、すごく鼓動が高鳴りました。
初めて大樹寺や伊賀八幡宮の訪問というともあり「おおお~お」そんな言葉ばかりでしたね。
大樹寺駐車場内では、五平餅やみたらし団子の売店があり、そちらも堪能させていただきました。
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